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インターネットオークション [フィギュアスケート]

フィギュアスケート観戦が趣味である。
勿論、すべてのショーを観戦できるほどお金と暇に余裕がない。
でも今年は、一年ぶりに出演する高橋大輔選手を間近で見たい。
そこで、NHK杯を見に行こうと決めた。

しかーーし。
11/7は、先行予約の抽選に外れ撃沈。今日の一般発売は、瞬殺で売り切れ。
「やっぱりなー」と思いつつも、どうにもこうにも諦めきれず。
ヤフオクをのぞいてみた。
案の定、たくさん出品されている。

だけどオークションって一度もやったことなくて、手順が今一歩わからない。
ただ、出品者も落札者も実績があって信用取引ができたほうがいいことはよくわかった。
初めての取引の場合には、住所・氏名・電話番号・メルアドの通知が必要なことも。
なるほどなるほど。

とりあえず、ヤフーIDを取って…オークションに登録して…。
え、これだけだと5000円未満のものにしか参加できない?
それ以上の取引は、プレミアム登録が必要なのか。
じゃ、個人情報フォームに名前を入れて…とか指示通りにやっていたんだけど、
途中で「はた」と我に返った。

なんだかとっても、めんどくさくなった。
それと同時にだんだん腹が立ってきた。

だって、これってただのダフ屋じゃん。
評価の高い人は、それだけ高値転売している数が多いと言うこと。
そのダフ屋に個人情報をあらかじめ出さないと、参加もできないシステムってどういうこと?
ネット詐欺が多いから、そうでもしないと防げないというのもわかるんだけど。

でも、そもそもこんな風に転売目的でチケットとる人がいなければ、
もう少し入手しやすくなるはず。
ヤフーなんてつぶれちゃえ。

人気チケットだから仕方ない。
とはいえ、ダフ屋をのさばらせるのも、なんだか悔しい。
テレビ放映のある大会だしテレビで観戦できるからまだいいね、
と自分を慰めてみるのであった。

ちなみに、チケットぴあのキャンセル分の発売はおそらくこれから。
ひょっとしたら当日券もあるかも……。
そのラストチャンスに賭けてみようっと。

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小川洋子「猫を抱いて象と泳ぐ」(ネタバレ) [レビュー]

これは、ほとんど手がかりのない伝説のチェスプレイヤーの生涯を丹念に調査した伝記です。………
と、言いたいくらいにリアルな話だった。
リトル・アリョーヒンは実在するのだろうかと、あちこち検索し、フィクションだと再認識し。
それでも、リトル・アリョーヒンはやっぱり実在していたんじゃないかと思える作品だった。

小川さん独特の透明感のある文章。
一枚ヴェールをへだてた向こうに見える世界は、相変わらず美しい。
その世界で優しい人々が、静かに苦難に耐え、それぞれの別れと相対している。
それが切なくて、読みながらなんども泣けてきてしまった。

さて、この登場人物達はそれぞれ閉じこめられている。
その閉じこめられた中で、それぞれの人生を生きている。
閉じこめられたその中こそ、最も自由な場所であるというのは皮肉だ。

主人公のリトル・アリョーヒンは、チェス人形の窮屈な空間の中、
心だけは自由になりチェスの海を泳ぐ。
マスターは、リトル・アリョーヒンにチェスを通じて自分の哲学を教える。
リトル・アリョーヒンが、マスターのことを吸収していくのとは対照的に、
マスターは住処であるバスから出られなくなっていく。
自由になればなるほど、閉ざされていく過程が哀しい。

リトル・アリョーヒンの最後の試合は、手紙で行われた。
一手一手を重ねるごとに、対戦相手であるミイラとのあいだの理解を深める。
そして、彼は、その試合に勝つ。
彼が勝つことで、リトル・アリョーヒンもミイラも、お互いに大事なものを手に入れられるはずだったのに。
残念ながら、間に合わないのだ。

「猫を抱いて象と泳ぐ」この話は好きだ。
心の奥底で、懐かしい何かが疼く。そんなせつなさを呼び覚ましてくれる。
でも、せつなすぎる。
物語は、ハッピーエンドのほうがいいのかもしれない。
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村上春樹 「1Q84」 (ネタバレ含む) [レビュー]

今回の作品は、どちらかというと初期の作品に近いと感じた。
オウ○真○教の地下鉄テロ事件の影響による、カルトや暴力への問題提起があるが、
今回はそこには触れずに、過去の作品と関連づけてレビューを書いてみようと思う。

村上氏の作品は、読後に考えさせられることが多い。
そして、読むたびに印象が変わる。
正解のない自分なりの印象。これは、自分に何かを残すだろうか?

では、本題。
「羊をめぐる冒険」「ダンスダンスダンス」「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」
いずれも好きな作品であり、それらと関連があるのかなと思いながら読み、
深い余韻を味わうことができた。

本書の「リトル・ピープル」は、羊三部作の「羊男」を思わせる。
恩寵(や力)を与えるけれど、そのかわりに内部をむしばむもの。
リトル・ピープルも羊男も、自分たちではどうにもならない「時代の意志」の象徴ではないかと思う。
時には「運命」と呼ばれるのかもしれないし、あるいは「自然淘汰」と呼ばれるのかもしれない。

さて、現代は悪意に満ちている。
善意は過去のものとなりつつある。
これ以上、悪へのバランスを傾けてはならない。
このままでは滅びへと向かってしまう。

だからこそ、鼠は羊男を内包したまま自らを滅ぼす。
そして、リーダーもまた青豆にすべてを打ち明け、自分を殺してくれと頼む。
天吾とふかえりの反リトル・ピープル作用を期待し、後を託すために。
それが世界の終わりを遅らせるための方法であるから。

青豆は、ある意味巻き込まれただけに過ぎない。
しかし一番苛酷な使命を負ってしまっているように思う。

天吾はふかえりの「空気さなぎ」を書くことで、月のふたつある1Q84年に入ってしまった。
そのときに、気持ちの上で結びついていた青豆を呼んでしまう。
青豆は、自分が天吾の書いた小説にふくまれたことを知らずにふたつの月をみつめ、
1Q84年をたくましく、クールに渡り、愛のためにハードボイルドに苛酷な運命を終える。

村上氏の小説では、与えられた役割が終わった人は退場するのだ。
そしてそれまでは、上手にダンスのステップを踏み続けなくてはならないのだ。
キキのように。

青豆のラストシーンはとても悲しいものだった。
彼女自身に救いはあったのだろうか?
世界が悪意に満ちても、彼女にとってはどうでもよかった。おそらく。
彼女は愛のために、すべてを捨てたのだ。
そして、天吾のもとに孵ることができた。
ただ、その前に会わせてあげたかった。
そう思う人は多いに違いない。
でも、100%の恋人同士はすれ違う運命なのだ。
出会った瞬間、100%ではなくなってしまうのかもしれない。

一方の天吾は、青豆を必ず見つけると決意を新たにする。
おそらく天吾は、自分の書く文章の中で青豆を見つけることができるのだろう。
このあたりが、「世界の終わり」を思い起こさせ悲しくなる。

「世界の終わり」の「僕」は死ぬことも生きることもない永遠の自分自身の意識の中に生きる。
そこにあるのはすべて「僕」が作ったものである。
永遠の孤独である。

「僕」が影を失ったように、天吾は青豆を失い、自分自身の中に生きることになる。
しかし、「世界の終わり」では、図書館の女の子の心を見つけることができた。
だから、青豆もきっと見つかるに違いない。

そうでなければ、あまりに孤独で救われない。



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残されたお弁当 [雑感]

ふたりは、お隣さん同士。ふたりは、それぞれの連れ合いを亡くしたあと、小さなアパートの、隣の部屋に住んでいた。
彼らは民間のお弁当を頼み、食事を確保し、時に慰めあい、あるいは励ましあい、共に支えあいながら穏やかに日々を暮らしていた。
太郎さん(仮名)は体が弱かった。そこで、しっかり者で世話好きのお隣の八兵衛さん(仮名)は、自分のお弁当を頼むついでに、太郎さんの分も頼むのが習慣となった。

時が過ぎ、太郎さんには、ヘルパーさんが来ることになり、お弁当はいらなくなった。

ちょうどその頃、しっかり者だった八兵衛さんには、認知症の症状が出ていた。認知症は、新しいことを覚えられなくなる病気である。そのため、八兵衛さんは、「太郎さんにはヘルパーさんが来るので、お弁当は必要ない」ということを、覚えられなくなっていた。

八兵衛さんが覚えているのは、「太郎さんの分も、お弁当を頼まなくては」という習慣だった。かくして、必要のないお弁当が、毎回太郎さん宅に届けられ、行き場のないままお店に戻るという結果となった。

結論から言うと、市町村も介入した。八兵衛さんからのお弁当の依頼があった場合には、ふたつという注文であっても、ひとつだけの配達でよいと決まりができた。そして、行き場のないお弁当はなくなった。

さて、老いは容赦なく訪れ、人は必ず老いる。その過程でいろいろなものを失っていく。これは、「いずれ行く道」である。

そう考えたときに、ただ思う。

八兵衛さんは、日々の記憶を失いつつあるが、一番大事な「誰かを思いやる」という気持ちは失わずに過ごしている。それは、簡単にできそうで、実はなかなかできないことなんじゃないかと。そんなふうに感じる。

自分にどんな未来が待っているのか、それはわからない。

しかし、もしも自分に老いがやってきたとき。自分よりも大事に思う人がいて、そのことを忘れずにいられたなら。それは、一番しあわせなのかもしれないと思う。人は、生きてきたように死を迎えるのだろう。自分は、そういう優しい気持ちを持ち続けることができるだろうか?

残されたお弁当は、現在老いてない人にとっては「手間」であった。しかし、それと同時に、自分の生き方を改めて感じさせるものであり、なんだかとっても尊いもので、人の生き方の象徴であったように思えるのだ。

 


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きんのかぎ [政治 社会]

お友達から聞いた、とある童話のパロディです。

あるとき、湖のほとりを散歩していたら、持っていたカギを落としてしまいました。あまりにも広い湖で途方に暮れて、湖面を眺めていたら女神様が現れました。

そして女神様は聞きました。

「そなたの探しているのは、この金のカギか?銀のカギか?普通のカギか?」

「女神様、わたしが探していたのはその普通のカギでございます。見つけていただいてありがとうございます」

「そなたは、非常に正直者じゃ。その正直さをたたえて、この金のカギをつかわそう」

「いえ、私が欲しいのは、普通のカギです。女神様ー」

「謙遜するでない。まさしく金のカギにふさわしい御仁じゃ」

そして、女神様は、あっという間に湖面から姿を消しました。

 

あのーー…その金のカギでは、部屋に入れないんですけど。お願い、女神様。普通のカギかえして。わたしが欲しいのは、金のカギでなく普通のカギなんです。

そして、彼は途方に暮れる。

 

と、いう。かの有名な「金の斧」の パロディ童話です。

さて、このパロディに教訓はあるんでしょうか?パロディに教訓を求めるってのも、どうかと思うんですが。

あえて言うなら、「自分がよかれと思ったことは、必ずしも人のためにならない」ということでしょうか?金のカギは、いずれ生活の足しになるかもしれませんが、今必要なのは、自分の生活の基盤であったり、自分自身が安心できる場所であったり。自分の家にはいるために、カギ屋さんを頼んだり、もしくは壊したり。金のカギをいただいたことで、余計な出費が出るのは事実ですね。

今回、定率減税(?)の 一環で、世帯毎にクーポン券が交付されるとか。大盤振舞のはずでしたが、所得制限と交付金額については、議論中で先行き不透明だとか。とはいうものの、「今の交付は景気対策のためで、先々の消費税増額は許してね」と言う意図が、低支持率の麻生首相にあるとか。

押しつけられた金のカギ。これに意味があるのかな。

その予算を、できれば医療面にすべて使って欲しい。そして、疲弊しつつある 救急医療に与え、安心を確保して欲しいと思うのは私だけでしょうか?

「いいんです。首相(女神様)。私が欲しいのは、私が家で、安心して過ごすための…普通のカギです」


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ちょっとむっとしたこと [雑感]

今日、駅でちょっとしたことがあった。

女子高生が、名札を落とした。それを拾って「落としましたよ」と声をかけた。女子高生は気づかなかったようで、そのまま進んだ。周りの人が、親切に彼女に声をかけてくれた。

落とし物を渡そうとしたが、本当に彼女のものかふと不安になり、「あなたのものですよね?」と尋ねた。

そのとたん、彼女は人の手の上から名札をひったくり、人をにらみつけ、何も言わないまま背中を向けて去っていった。

唖然としてしまって、 何も言えなかったんだけど。なんで落とし物をわたして、にらまれなきゃならないんだ。

別にお礼が欲しいわけではなかったが、自分の持ち物をひったくってそのまま去る彼女。ほほえむことすらなく、にらみつけるし。わざわざあとを追いかけたのに。はっきりいって、後ろから蹴飛ばしたいくらいの気分になった。非常に不快だった。

そして、それに対してひと言もいえずに、呆然とした自分にも腹が立った。「小学校からやり直してこいよ」本当にそう思った。

大げさだけど、こういう子達が、将来を担っていくんだろうかと暗澹たる気持ちになった。 世も末だなと思った。

人と人はつながりである。落としたものを拾って渡しただけ。それだけのことなのに、ここまで人を不快にさせた彼女はすごい。彼女には彼女の言い分もあるかもしれない。私がうさんくさかったとか。ひたすらイライラしていたとか。

でも、人と人はつながりである。多くの人がすれ違う駅。

些細なことだからこそ、自分では気づかない。気づかぬまま自分がやっていることが、人を不快にさせることもある。自分も同じようなことをしてるかもしれない。少しの出来事でも、不快にならないよう気をつけなくっちゃ。改めてそう思った。彼女は、反面教師になってくれたんだと、そう思う。

挨拶はきちんと。謝罪であるならなおのこと。我ながら、人は簡単に怒る。怒らせるのは簡単だけど、喜ばせるのは難しい。でも、どうせなら。相手もきもちよく過ごせますよう。そんなふうに気をつけよう。

あすもいい一日でありますように。

どなたさまにも、笑顔の一日でありますよう。 

 

 


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バトルとランビエール [フィギュアスケート]

四回転ジャンプを跳ばないジェフリーバトルが制した、2007-2008世界選手権。
跳ばなくても、ただ、氷上にいるだけで優雅でみとれてしまう。
誰にも負けない武器をもっていたジェフリーバトル。

そのバトルは今シーズンは現役引退…。
そのニュースにショックを覚えた方も多いと思う。

昨年、グランプリシリーズの地上波の放映があまりにもひどくストレスがたまったので、
今年はCSに加入してみた。
そして、録画してあったビデオを整理していたところ、
CSチャンネルでジェフリーバトル発見!!

CH254 GAORAの「プロフィギュアスケート アイスショー#2」

バトル選手、ここに参加していたのね。
このショーには、サーシャ・コーエン、エヴァン・ライザチェックも参加していた。

ひさしぶりに観たバトル選手は、のびのびと演技していた。

無駄な出費になりやしないかと、どきどきしてましたが。
CSに感謝。
これからしばらく、オンシーズンのフィギュアスケートが増えるだろうし。
ほんとうに楽しみ♪

かつてエキシビジョンで滑っていた「アヴェ・マリア」が観たいんですが。
祈りを捧げる、ほんとうに美しい演技でしたし。
また、見る機会があるかなと、わくわくモードのオンシーズンになりそうです☆

さて、先週、残念なニュースが飛び込んできました。
そう、ステファン・ランビエール選手、けがのため現役引退です。

プルシェンコ全盛期時代には、今一歩力が及ばなかったものの、
プルシェンコに次ぐ圧倒的な実力を持ってましたね。

とくに、先シーズン(一年前の途中からでしたが)の「フラメンコ」
後半にかけて、曲も盛り上がり。
とりつかれたように激しく踊るランビエール選手は圧巻でした。
実際にスペインでフラメンコを観ているような気分になりましたもん。
また、観てみたいですね。

今シーズンはけがからの回復が、まずは優先されるかもしれませんが。
今後もアイスショーに出演されるでしょう。
それを楽しみに。

バトル選手やランビエール選手。
それに、コーエン選手、エルドリッチ選手。
…ヤグディン選手は、けがから復調されたかな…。
今シーズンの活動はあるのかな…。
楽しみな選手がいっぱいです。
放映される番組は、見逃さないようにしなくっちゃ☆

まもなく、グランプリシリーズも開幕。
高橋大輔選手には、やはり頑張って欲しいです。
ドラマティックで、セクシーで。
安定したジャンプも手に入れた昨シーズン。

コーチ変更などいろいろありましたが、
いろいろな葛藤を超えて、今年こそめざせ頂点へ。

大好きな選手がいっぱいの今年。
今年もフィギュアから目が離せません☆





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秋空 [散文]

雨がやみ
透き通るような青空

ふと見上げたそんな晴天
ぽっかりとした雲の合間を
銀色の機体が進んでいった

ただ
それだけの風景だったけれど

秋のひかりを受けた
機体はいつもと違って
自由に飛んでいるようで

それを見ているだけで
いま 在るものから解放され
自由に進んでいけそうで

妙に心に残った

日暮れが早まった秋
気づけば闇が空を満たし

そこに まんまるな月が浮かんでいた

充ち満ちた月のひかりは
満ちた明日を
見守ってくれそうで

妙に心に残った

そんな
秋の一日だった

 


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キンモクセイ [花]



彼岸花ですら 遅れて咲いた今年


例年ならば 街に漂っているはずの

香りが まだ やってこない



と 思っていたら

雨の匂いを かき消すように

ほのかに 甘い匂いが運ばれてきた



深い緑の葉の蔭に

蕾をつけ 開きはじめた 金木犀



たしか 去年も 雨の匂いの中

金木犀が咲いていた



街中が薫る頃には

雨もやむだろう



そして


青空と 秋の風を連れてくる








*もしかしたら、流星も連れてくるかもしれません。

ジャコビニ流星群到来。

10月8日20時頃、極大を迎えるそうです。

今のところ、予報では雨。

晴れて欲しいですね。


http://www.astroarts.co.jp/alacarte/2008/200810/1008/index-j.shtml




*おまけ  咲き残っていた百日紅(さるすべり)


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がんばって [雑感]

知人に99歳の老婦人がいる。彼女は、英語とフランス語が堪能で、当時の女性としては珍しく、世界を股にかけて働いていた方である。今もなお、フランス語で論文を書き上げることをライフワークにしていて、そのバイタリティに感服するばかりである。そして、その人の生き方次第で、充実した輝く老後を送ることが出来る、ということを体現してくれている。素晴らしいご婦人である。

彼女は、定年退職後、単身フランスに渡り、フランスで生活しながらフランスの文化に触れ、帰国後フランス語の教師を生業としていたそうである。そんなわけで、彼女はフランス語を時々私に教えてくれる。挨拶程度の短い言葉だけれど、英語でさえあやしいトーシローの私にとってはかなりの苦行である。彼女はたまにテストをしてくるので、彼女と会うときには、アンチョコ必須である。見事正解すると、「メモ見たでしょ?」と聞いてこられる。いやはや、鋭い女性である。

さて、そんな彼女が先日教えてくれた言葉が、「頑張って」である。

フランス語では、 ”von courage” というらしい。 ”courage” は 「勇気」である。直訳すると、「勇気を持って」となる。
「頑張って」にあたる概念は、フランス語にはないのだという。

確か英語にも、「頑張って」をそのまま表す言葉はなかったかと思う。
”Do your best!” で 「ベストを尽くせ」
”Good luck!” あるいは、”I wish you good luck(success)!” で、「幸運(成功)を祈る」
”Keep up the good job!” で、「よい仕事をね」
このあたりが、近しい言葉だろうか?

では、他の言語ではどうなんだろう?検索してみた。

スペイン語では、
”Animo!” これは、英語では”Keep it up!”「その調子だよ」

ポルトガル語では、
”Boa sorte!” 英語の”Good luck”にあたるとか。
他には、前述の”Animo!” 

イタリア語では、
”Forza e Coraggio!” これも、”Coraggio”が「勇気」という意味なので、フランス語と同じく「勇気をもって」だろうか。

アラビア語は、いまいち調べきらなかったんですが、
「アッサラームアレイクム」ではないだろうか?
以前、この言葉はなんにでも代用可能なスーパー挨拶語だと聞いたことがある。
「おはよう」も「おやすみ」も「さよなら」も「元気でね」も。
「がんばって」もそうだと聞いたことがある(違うかも……)
いやはや、アラビア語はおおらかである。

中国語では、北京オリンピックで有名になった
「加油!」 この油は、「馬力」を意味するとか。
つまり、「もっと力出せ~」あたりのニュアンスなのかな?

こうやって、振り返ってみると。
欧米では、「それ以上無理しなくていいよ。あとは幸運にまかせよう」とか、「力を出しているんだから、それがよい結果につながればいいね」というようなニュアンスが含まれているように思う。

日本だと、「①我意を張り通す②どこまでも忍耐して努力する③ある場所を占めて動かない」ー広辞苑より。
これは、きつい。考えるだけでつらいかも。

中国の「もっと馬力出せ~」ってのも、「これ以上やるんかい!」と反論したくなってくる。

もう頑張りすぎるほど、頑張っている。これ以上何を要求されるの?一体どうやればいいの?
人それぞれだろうが、「もうどうにもならないところまで耐えている」人に対して、「これ以上耐えろ」というのは、ほんとうにつらいことだね。
日本は、もともとまじめな人が多い民族である。責任感が強い人が多い。そんなわけで、自殺もすごく増えている。鬱病の発症率も高いんではないかと思う。

もちろん、岩をも通すほどの一念で固い意志がある人は別であるが。

もしも疲れたならば、その人には。
「もう頑張らなくてもいいよ」「がんばりすぎない」「耐えなくてもいいんだよ」
現代社会では、それが、一番必要なんじゃないかと思う。
今の自分をあるがままに受け入れる。
そこからまた、道が開けるのかと思う。

肩の力を抜いて、自分らしく生きていければいいね。

さて、大義名分も得たし、わたしも心おきなく、さぼることにしようっと。
……え?それ、意味違うかも?


 


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